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混じり気のない気高き青であれ

合理化された近代文明の讃美者

仮面の告白

僕は、過去のブログでも綴ったように大学は世間では所謂Fランク地方私大に通っていた。

高校での成績が自分でもよくわからないほどに良かったのである進路指導の先生に、「君の成績(評定)ならこの大学、授業料半額免除もらえるよ」とアドバイスされ流されるままにその大学へと推薦してもらい、ただ何処か広い海を漂うクラゲのように流されるままに入学が決まった。

それでも、僕の家庭は家族の面倒を見るので精一杯だったので必然的に奨学金を借りるしかなかった。入学金は祖母に出してもらったことに関して言えば、感謝している。

奨学金とは言えども、僕が借りたのは利子付きの方なので、現在大学を中途退学してしまった僕にとってはかなり重い足枷となり、家族にも金銭的にではなく、精神的に負担をかけてしまっていることには自分でも情けない有様である。(補足すると僕は奨学金を一年で切っていて、総額は100万くらいなのだけど半額免除のおかげで50万くらい使っていない奨学金があるので今はこのお金を使って返済している)
↑返済額は利子付きなのでたぶん130〜140万くらいだと思う

ここまで借金を背負ってまで、新たな大学(東大)を目指すとなると道は遥かに険しいのは明らかであるが、僕はこんなところで人生を終えたくない、ここで死を迎えるのならいっそ神風のように刹那の命であった方がいいんだ。


ただ親に迷惑をかけずに生きるには大学に入ることではなく、「社会のシステムにいち早く組み込まれ、社会人という空間での自立」こそが僕の両親の求めている最適解であって、僕は未だ親の期待に応えることも応えるつもりはない。



ー生まれた環境こそ関係はするが、人工的に環境を変えられるように僕らも同じく変えることができるはずなんだ。それを自ら心の盾にするのはダメだ、諸刃の剣でなくては遥か巨大な人間と張り合えるわけがないじゃないか


ー僕はここに誓う、

ーこの不条理な世の中であれ、救いを与えるのは他人でもなく、紛れも無い自分自身だということを。


終わり



おまけ
・僕は色んな人に迷惑をかけて生きているんだと考えるだけで、辛くなることも多いです(ほとんどが親なんですけどね)しかし、どれだけ現状を憎んだって何も変わらないのは当然ですよね。少しでも前に進むことが大事なんです、ボートを漕ぐように…それではまた次回の更新で

We Are the Champions


ー君は強いのか、それとも弱いのかあるいは

僕は、勝ち組になりたいとは強く思っていたりはしない。
かといって、負け組でいいのか?と聞かれるとこれもまた良い返事はできない。


勝ち負けが適用されるのは「公平fairな世界」にしかないと考えるからだ。


君が思い描く公平fairな世界とは何だろうか。

スポーツのような規則によって縛られた状態で競争するものか、それとも生を受けもった環境そのものなのか、あるいは僕が君を敵だと判断し、個人の主観によって変わる他者をも巻き込む政治的なものなのか。

一概に、公平な世の中というのは誰かが恣意的に定義し、提唱し根付いたものであって、それらは有効的に働くとは僕には到底思えない。生まれ持った環境なんて、それこそスピリチュアルな世界に展開するし、またスポーツのような世界ではフェアプレー精神などといった様々な要素が多く混在するのでこれらは判断しづらい(人によってどれがフェアなどかも定かではないだろう)。


では、人間以外の生物はみな勝ち負けといった世界で生きているだろうか。


彼らの生と僕らの生は同じようであり全くの別種なものであると考えた方がよいだろうけども、人間には知性という特別な力を生まれた時点で授かっていることを除けば同じ=で結ぶことが出来るはずである。

だが僕らは線引きを引き、生物と人間との境界線を引いて生きている。

これは果たして公平なのか。

僕が言いたいのは、勝ち負けの要因を作るのは僕自身で、君自身だということである。
結局のところ、僕は僕の考えを人に押し付けるようにして文章を書き、読んだ人たちはその書かれた文章を自己解釈する。つまり、他者に波及させることこそが勝ち負けを生んでしまう原因であり、人の価値観そのものを揺るがせてしまうものではないかと僕は思っている。


結論
ー勝ち負けというのは所詮人間が作ったただのエゴでそれを鵜呑みにして生きるな、ということなのです。

このブログはほとんど思いつきをそのままタイピングしているので、思考や論理がガバガバな所が多くあると思いますが、僕の思考をただ垂れ流しているだけのものなので大した意味はありません。



終わり


おまけ
・僕自身ロックはあまり聴かない方なんですけど、たまに聴きたくなる時があってその時は決まってOasis, Queenといった大御所のバンドばかりです(にわかなのでしょうがない笑)良きgood loserでいましょう。僕らはチャンピオンなんですから…

雉鳴く高円の辺に桜花

桜は本当に美しいのか?

はい、
僕は桜というという桜をこの方、短い人生の間で実際に見たことがあまりないので、どうも想像が上手くいきませんが僕の住んでいる地域では緋寒桜という冬に咲く桜がありますゆえ、個人的には心が奪われ傾倒するほどのものという見解には未だ行き着いておりません。

これらの抱く、「美しい」という感情に関していえば文化の違いや育ちの環境によって大きく異なるのではないでしょうか。

花が好き、というなればそこら中に年中咲き乱れ、桜以外にも綺麗な花の方が多く存在するような気さえします。しかし、桜というのは(ここが一番論争になる)なぜここまで人を惹きつける魅力を備えているのか考えたことがありますか?


個人の想像の範囲内で、桜の美しさに是非を問いたい。


第一に、‘‘花は花でも咲く季節の中でもとりわけ我々が再出発、転換期という区切りのよい時間の間に大きくその姿を我々の目に映すことである’’

第二に、‘‘存在感という点では薔薇や向日葵、紅葉といったような人を選ぶような花ではなく、背景に薄く馴染み、個人を映えさせるような影の立役者のような安心、安堵のような感情を抱くことができる(万人的に)’’

第三に、‘‘桜というのは日本人においていえば、普遍性を持ち、誰でも共通的な審美眼を持ち合わせることができる所謂、凡庸的’’


三つの視点から僕は、「桜というのは普遍性を持ちながらも、誇大に存在することによって自らの心と結びつける役割を果たしているがゆえに(=美しい)」というような価値観を生んだのだ。



ー人生というのは短いが、しかし人生を終える前に桜に是非を説いたい



終わり



おまけ
・ある万葉集の一節から引用してみました。桜というものを一度、好きな人と共に眺めてみたい花の一つです。二人で眺める桜は美しいのでしょうか。

オルドー自由主義

僕は思うのです。

果たして、凡才と天才の差とは何か。
それらを比較的に、対象的に比べることは本当に公正でかつ万人が満足得るほどの答えはあるのか。

普遍性を持った考えによれば、‘‘あるにはある’’ということが共通な認識としてされているかと思いますが、両者を比較する基準というのは非常に定義も何も曖昧なもので、それこそ論争の火種になるほどアプローチのし難いものであり、誰しもが自らを‘‘凡才’’(他にも様々な才があるが例えば「秀才」)‘‘天才’’…といったような才覚、才能という言葉を用いて物事の尺度を図ろうとする傾向にあることは確かである。と僕は誇大な主観によって断言していますが。笑


しばしば、‘‘天才’’と世間から認められる(揶揄される)人物はみな総じて‘‘これらはすべて努力の賜物によるものだ’’といったような、今までの人生において少なからず、積み上げてきたものこそが‘‘天才’’へと変貌を遂げるものになると発言したりする様子が見て取れるかと思います。

この世界は残酷なことに、生まれ持った環境によって全てが左右されてしまうほどに‘‘運(luck)’’が重要視されてしまうものです。


因果律には決して逃れることができないのかもしれません。


色々、思考している内に様々な考えが渦巻き、整理すればするほど理解できないものになっていくので(ここまで風呂敷を広げといて)、もう少し僕が哲学徒のように哲学をすることができれば解決することができるかもしれない…




結論
ー広義な凡才を探すのではなく、狭義な天才を見つけることこそが遥かに有意義である




終わり



おまけ
オルドーOrdo(秩序)を表すラテン語です。←これは経済思想史から拾ってきた、ドイツのフライブルク学派と呼ばれる経済学者が打ち立てた思想らしい…。経済学専攻している人はすぐに感づきそうな題名になりました。

ニーチェとの対話

何を成したくて生きているのか、何を理想として掲げるのか。

つい最近(一年前)までは、地元私大に通い様々な友人と出会い、遊び、勉強のべの字もないほどにアルバイトに明け暮れていた日々を一年間過ごしていた時期(時系列でいうと二年前になります)がありました。その後、僕は何を思ったのか大学生活初の春休暇中に「大学をやめて僕が本来行くべきだった大学へ(学問)行こう」といった一種の自己陶酔のようなものに陥り、晴れて大学二年生になったのも束の間、わずか一ヶ月という短い期間で地元私大を中途退学してしまったのです。

と、ここまで書いてしまえばある種の再受験ストーリーじゃないかという考えを抱くのが普通なことですし、僕もそういうつもりでここにこうしてブログという形で不特定多数である方々に形あるものとして残そうと思っています。

しかし、他の受験ブログのような僕の境遇もここではあまり深く言及せず、あくまで僕が思考したことを文字として書き記すのであって受験のブログにはなれないし、あるいはそうでないかもしれない。

ただ、僕がこのブログを通して伝えたいことは勉強=受験ではないんだよ。
僕と違って、正しい道を君が選択することができる意思があれば、多くの選択肢が君には残っているんだ、と声を大にして伝えたい。

でも、僕は大学中退(学歴上では高卒の方が正しいかもしれない)なのによくこんなこと言えるなという意見も必ずでてくると思いますが、これら僕の思考の記録は主観的に書き綴っているのであって特定した人物について言及したものではないので悪しからず。



ー思考の記録とは自己との対話であり、精神と向き合うための手段である。



終わり



おまけ
・不自然な題名だと思った方もいるかもしれませんが、たぶん(確実性はないけど)僕がふと頭に浮かんだ本のタイトルなんですよね。笑 面白いじゃないですか、僕は好きです。

それから

大学を中退してから早1年が経とうとしている。

僕は一年前から何か変わったのだろうか、あるいは燻り堕落してしまったのだろうか。
今の僕にはこれらの問いに答えられるほど、己に向き合ったことがないので当然答えが出るわけでもない。

このブログは、自己の精神と真摯に向き合う為に作ったブログにしようとも思っているし、一般的なブロガー達のような趣味等のレビューもやりたいとも思う。(つまり気分によって好きなことを書きますよってことだよね笑)

ただ、僕は一度人生をドロップアウトした人間ということを自覚しなければいけないことを常に肝に命じて置かなければならない点においては、他の人と比較すると(比較することはあまり好きではないが)ハードモードになってしまったので人一倍努力しなければいけないのは周知の事実であろう。

今回は、初めまして紹介の記事のつもりなので長々と書くこともないし僕についてや再受験についても追々、書いていくつもりなので末長い目で見守ってほしい(読者がいればの話だが笑)



終わり


おまけ
僕の趣味(?)
・映画鑑賞
・音楽を聴くこと(jazz, classic etc..)
・読書(普通の人よりは読む方なんじゃないかなぁ)